1987年から本格的なウォッチメイキングを手掛けはじめたシャネルが、その後の30数年間で成し遂げたクォリティの飛躍。自社工房であるG&Fシャトランの充実と、適切なM&Aによる関連企業の協力体制は、オートオルロジュリーをオートクチュールと同義と位置付けるシャネルならではの手法だろう。現在のシャネルが擁する基幹ムーブメントの全貌と、デザインを取り仕切るアルノー・シャスタンの言葉から、その根幹に通底する“シャネルの時”とは何なのかを探っていきたい。
J12 パラドックス2色のセラミックケースを切断し、繋ぎ合わせたバイカラーケース。防水性を確保するためか、バックケースにメタル製のリングを介してサファイアガラスを嵌め込んでいる。自動巻き(Cal.12.1)。28石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間。高耐性セラミック×SS(直径38mm)。50m防水。108万9000円(税込み)。星武志:写真 Photographs by Takeshi Hoshi (estrellas)鈴木裕之:取材・文 Text by Hiroyuki Suzuki[クロノス日本版 2021年11月号掲載記事]Le Temps CHANEL,CHANEL Horlogerie
J12 ファントムすべてのディテールをホワイトのトーン・オン・トーンで仕上げたモデル。見返しやダイアルセンターなどに光輝材を混ぜて、白一色の世界に抑揚と高い判読性を加えている。自動巻き(Cal.12.1)。27石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間。高耐性セラミック×SS(直径38mm)。200m防水。91万3000円(税込み)。シャネル初めてウォッチメイキングを手掛けたのは1987年のこと。以来34年間にわたって、シャネルはその質を大きく高めてきたが、そこに至る過程には大きな転機となるような出来事がいくつもあった。その最初のきっかけは93年である。かねてより「プルミエール」などを手掛けてきたラ・ショー・ド・フォンの外装マニュファクチュール、G&Fシャトランから経営権を引き継ぎ、シャネルは同地に約1800㎡の敷地面積を持つ自社ファクトリーを擁することになったのだ。
1987年の「プルミエール」以降、多くのレディスウォッチを手掛けてきた当時のアーティスティックディレクター、故ジャック・エリュの集大成とも言えるメゾン初の本格機械式腕時計が、2000年に発表された「J12」だった。実用腕時計のセオリーに即しながら、セラミックの外装を纏ったこのモデルは、この比較的新しい素材をプレシャスなイメージに変えただけでなく、2世紀以上に及ぶ伝統的なウォッチメイキングの概念に新しい風を吹き込んだ。ヨットやレーシングカーのイメージに着想を得たとされるジャック・エリュの情熱的なドローイングに表現されていた流麗さが、艶やかなセラミック素材を用いて見事に再現されていたのだ。ケースやブレスレットの製造技術も年々向上していき、G&Fシャトランによる完全内製化が成し遂げられて以降は、他社のセラミックケースを軽く凌駕するまでに洗練の度を高めるようになっている。
ところで、こうした外装技術の進化を足掛かりとして、高級時計メゾンとしての基盤を確立させていったシャネルが、その内部機構にまで目を向けるようになったのはいつ頃からだろうか? 歴史的に見れば、既存のエボーシュにセラミックスの地板を加えて05 年に発表された「J12トゥールビヨン」がシャネル製コンプリケーションの端緒と位置付けられる。しかし、実質的にムーブメントそのものに目を向け始めるのは、08年の「J12キャリバー 3125」からだ。自動巻きの3針デイト付きという構成は、機能的には通常のJ12と変わらない。しかしオーデマ ピゲ製のキャリバー3120をベースとするそのムーブメントに、シャネルは宝石と同等の価値を見出した。直線的な意匠にアレンジされた両持ちのバランスブリッジと、ブラックセラミックでコーティングされた22Kゴールド製のローターは、シャネルがデザインを手掛けたものだ。
キャリバー 12.1J12のリニューアルに合わせて新規導入された基幹ムーブメント。基礎設計を共有するムーブメントも存在するが、本機はシャネルでデザインされた独自のローターを持つ。28石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間。こうしたコンプリケーションではない、ベーシックエボーシュへの品質追求の姿勢が大きく華開くのは、2019年にお披露目された、J12のリニューアル時だった。バーゼルワールドの開幕を2カ月後に控えた2019年1月、スイス時計産業の関係者の誰もが予想だにしなかったニュースが届いた。ジュネーブに拠点を置く新興ムーブメントサプライヤーのケニッシに、資本参加を表明したのである。16年に創業したばかりのケニッシは、その成立過程において不明な部分を残すのだが、大筋ではチューダーを発起人とするインディペンデントのムーブメントサプライヤーと考えていい。すでに大きな成果を上げていた新機軸のオートマティックムーブメントを使う権利を、シャネルはいち早く獲得したのである。果たして同年3月に発表された新生J12には、シャネル主導で開発された「キャリバー12.1」が搭載されることになったのだ。シャネルが企画とデザインを担当し、ケニッシが製造を受け持つこのムーブメントは、実質的なJ12専用機である。
この歴史的なフルリニューアルに携わった人物が、ヴァンドーム広場のシャネル ウォッチメイキング クリエイション スタジオを率いるアルノー・シャスタンだ。カルティエで10年に及ぶキャリアを積んだ後、2013年にシャネルのクリエイション スタジオ ディレクターに就任したシャスタンは、まだ駆け出しだった若き日に初代J12のデビューを目の当たりにした。氏によると初代J12とは「大きな影響力を持つファッションメゾンであるシャネルが、保守的なウォッチメイキングの世界を揺るがした存在」。氏自身をウォッチデザインの世界に向かわせ、現在もインスピレーションを与え続けるミューズなのだという。面白いことに、シャネルの中ではJ12を女性名詞として用いることが慣例のようだ。シャネルへの入社以来、「ボーイフレンド」(15年)、「ムッシュー ドゥ シャネル」(16年)、「コード ココ」(17年)のデザインコンセプトを立て続けに手掛けた氏は、自らにとっても原点であるJ12のリニューアルに際して、大いに悩んだにちがいない。結果として氏は「何も変えずに、すべてを変える」という手法を選択した。これは単なるコンセプトではなく、そうせずにはいられなかったのだ。自由な手腕を振るう箇所があったとすれば、それはキャリバー12.1のローターだけだったろう。そうした意味では、このワークホースにも、純然たるシャネルの血が流れていることになる。
ケニッシに資本参加することで、シャネルも汎用ムーブメントの代替機となる自社製ムーブメントを持つことになった。設計はシャネル、製造はケニッシが担当。J12専用のムーブメントだが、非円形のテンワにマイクロステラスクリューによる調速という構成は、実用機に相応しい堅牢さを併せ持つ。そうした半面、シャスタンのプロダクトデザイナーとしての熟達した手腕は、何も変えなかったことで一層クローズアップされることになった。やや細身に仕立て直されたベゼルと、エンジニアリングプラスティックの一種であるデルリンからセラミックス製へと改められたインデックス。ダイアルの断面となるデイト窓のフチに施されたメッキなど、ディテールの詰め方とバランス感覚の素晴らしさは、一見すると大胆さからは程遠いようにも思える。デイトディスクの書体を旧来のフォントから、シャネル独自の書体に改めるなど、神経質なほど仕事が細かい。しかしシャスタンは、翌20年の「J12パラドックス」で、自らに課した抑圧から一気に解放されたように思われる。ブラックとホワイトの高耐性セラミックを大胆にカットし、実に巧妙な手法で繋ぎ合わせたJ12パラドックスは、このメゾンが持つ、大胆にして緻密というDNAを存分に発揮する結果となった。
「私はセーターの袖口から覗くこの時計の姿が好きだ。最初はブラックのシルエットだけが目に入るが、少し腕を動かせば、驚きと心地よい違和感が生まれる。大胆さがなければ着けこなせないが、それでもそうした二面性を高級時計で表現したかった」。昨年そのようなコメントを残したシャスタンは今年、「シャネルの時」(Le Temps Chanel)というテーマを掲げて、横断的なストーリーを展開するという。エレクトロミュージックのグラフィックコードを取り入れたカプセルコレクションなど、個性的なモデルが多数展開される中で、特に本誌が注目したいのは、新規開発の「キャリバー12.2」を搭載する33mm径のJ12だ。ふたつめの自社開発オートマティックキャリバーを搭載する「J12キャリバー12.2 エディション1」のスタイリングに、再び選ばれたのはトーン・オン・トーンのカラーリング。リュウズに添えられひと粒のダイヤモンドと、バゲットカット調のサファイア製ベゼルプレートが控えめな個性を主張する。これはシャスタンがいかにオリジナルのJ12に敬意を払っているかの表れにも感じるが、あくまで今年はプレローンチイヤー。来年はもっと大胆なアプローチも見せてくれるに違いない。
J12 キャリバー12.2 エディション1新規開発された小径ムーブメントを搭載。ホワイトでは、ベゼルのバゲットカット調のサファイアに、乳白色のコーティングを施す。自動巻き(Cal.12.2)。27石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約50時間。高耐性セラミック×SS(直径33mm)。50m防水。各色世界限定555本。136万4000円(税込み)。シャネルのウォッチメイキングを率いるアルノー・シャスタンというデザイナーが、本誌のような時計専門誌にとって興味深いのは、ハイコンプリケーションという概念に特別な憧憬を抱いていない点にある。それはシャネルの独特なオートオルロジュリーの在り方にも影を落としているように感じる。
「シャネルにとってのオートオルロジュリーとは、技術的な複雑さを超越しています。そもそもオートオルロジュリーとは、複雑機構を搭載するウォッチのカテゴリーを意味していました。しかし、シンプルにできるものをなぜ複雑にしたがるのでしょう? 私は〝時計の複雑さ〞ではなく、〝時計の明瞭さ〞を考えるほうが好きなのです」
J12 キャリバー12.2 エディション1自動巻き(Cal.12.2)。27石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約50時間。高耐性セラミック×SS(直径33mm)。50m防水。世界限定555本。136万4000円(税込み)。そう語るシャスタンの美意識を具現化したものが、一連の自社製ムーブメントだろう。16年の「キャリバー1.」に始まるこのプロダクトグループは、複雑機構を持たない半面、傑出した美しさを持っている。それは単純な機能美とはやや趣きを異にする、美に奉仕するためのメカニズムだ。シャスタンのコンセプトに基づく幾何学的なブリッジワークも大きいが、何より時計愛好家たちが注目したのは、歯車や受け石といった機能パーツの美しさだ。筆者はこれほど大きく、澄んだ色合いで、美しいオリーベを持つルビーを他に見たことがない。この点については、11年から協業を行い、シャネルも資本参加しているローマン・ゴティエ(独立時計師として活躍する一方、スイスで最も優れたマイクロパーツサプライヤーの1社でもある)の功績が大きいが、その技術を理解し、自らのプロダクトにそれを求めたシャネルの審美眼には敬服する以外にない。
「シャネルにはオートオルロジュリーの概念に独特な定義があります。シャネルの時計製造に携わるスタッフは高度な技術を持つ職人たちであり、私は宝石職人や宝石彫刻師、刺繍、エナメルの職人たちと仕事をするのと同じように、時計職人のサヴォアフェールを頼りにしています。私にとってのオートオルロジュリーとは、ウォッチメイキングにおける自分のビジョンを表現する、最高の舞台。卓越性や大胆さ、比類のなさをキーワードとする、心ときめく遊び場なのです。オートオルロジュリーとオートクチュールは、含まれる単語がひとつ異なっているだけで、宿す魔法は同じなのです」