ウォッチジャーナリスト渋谷ヤスヒトの役に立つ!? 時計業界雑談通信
2022年1月24日、ラグジュアリー・コングロマリットのケリング・グループが、「ユリス・ナルダン」と「ジラール・ペルゴ」というふたつのブランドを所有するソーウインドSAを、現経営陣に売却するMBO(マネジメント・バイ・アウト)というかたちで同グループから売却した。その理由とは? そして、ふたつのブランドの未来は?
2019年まで毎年1月にスイス・ジュネーブで開催されていた国際高級時計サロンSIHHに出展していたユリス・ナルダン(左)とジラール・ペルゴ(右)のブース。渋谷ヤスヒト:文 Text by Yasuhito ShibuyaPhotographs by Ulysse Nardin, Gucci, Yasuhito Shibuya(2022年2月5日掲載記事)「ああ、やっぱり」な売却
「ユリス・ナルダンとジラール・ペルゴが売却された」という第一報を聞いて、筆者のように「ああ、やっぱり」と思った時計関係者は多いのではないか?
ユリス・ナルダンは1846年に創業し、昨年2021年に創業175周年を迎えた。そして、ジラール・ペルゴは1791年に創業した230年を超える歴史を持つ。どちらも時計の歴史に残る数々の傑作を世に送り出してきた、スイス時計界を代表する名門ブランドだ。
ユリス・ナルダンがケリング・グループに買収されたのは2014年秋。そしてジラール・ペルゴは2008年6月に、ケリング(当時はPPR=ピノー・プランタン・ルドゥート)が親会社であるソーウインド社の株式の23%を取得したことで関係が始まり、さらに2011年にケリング・グループの前身であるPPRの傘下になっている。それぞれ経緯は異なるが、どちらもブランドを再生させたCEOの逝去を経てのグループ入りだった。
そして今回、このふたつの老舗ブランドはMBO(マネジメント・バイ・アウト)、つまり現経営陣がブランドと事業を買い取るというかたちで、ケリング・グループから離れて独自の戦略で事業を展開することになる。マネジメントがしっかりできれば、これはふたつの時計ブランドにとって、間違いなく幸福な決断だろう。
ケリング・グループ傘下でこのふたつの名門ブランドが持てるパフォーマンスを存分に発揮してきたか?と問われると、残念ながら「イエス」とは言えない。
とはいえ、ケリング・グループ入りがマイナスだったわけではない。ふたつのブランドは新たな投資を得て、独自の次世代ムーブメントを完成させることができた。ケリング・グループが買収しなければ、おそらくSIHHへの出展もなかったはずだ。
SIHHに出展していたユリス・ナルダンのブース内の様子(左)と、ジラール・ペルゴのブース内での新作ディスプレイ(右)。ケリング・グループも、当初はスイスの中でも長く偉大な歴史を持つこのふたつの老舗ブランドを核にして高級時計事業に本腰を入れるつもりだったように思う。ブランドをよみがえらせ、1980年代に始まる機械式時計ブーム、高級時計ブームをリードした、ユリス・ナルダンを率いた故ロルフ・W・シュニーダー、そしてジラール・ペルゴを復興した故ルイジ・マカルーソというカリスマ実業家、投資家の情熱を引き継いで。
現在、このふたつのブランドのCEOを務めるパトリック・プルニエが2017年夏にユリス・ナルダン、そして翌2018年夏にはジラール・ペルゴのトップに就任。先に就任したユリス・ナルダンの2018年、2019年の新作は久しぶりに充実したもので、いよいよ実力が発揮される体制が整ったようにも見えた。
1970年6月12日、フランス、パリ生まれ。パリのHECとロンドンビジネススクールでMBAを取得し、スタンフォードビジネススクールを卒業。2000年、LVMHマイアミに参加。05年、タグ・ホイヤーに移動すると同時にLVMHグループのリテールコミッティーの一員となる。14年にアップル社の特別プロジェクトチームに参画し、アップルウォッチの発表などに携わる。17年にユリス・ナルダン、18年にジラール・ペルゴのCEOに就任。とはいえ、ブランド戦略がいまひとつはっきりしない感じだったのは否めない。どちらかといえば「くすぶり感」があった。だから今回の「売却」のニュースを知って「ああ、やっぱり」と思ったのだ。
買ったのは現CEOと……
時計ブランドやファッションブランドの「売却」、それもラグジュアリー・コングロマリットからの売却には、どうしてもネガティブなイメージがつきまとう。「投資価値がないと判断されたから売却された」と誰もが思うからだ。
しかし、今回の売却は通常の売却ではない。そしてネガティブなものではない。まず、売却の形態がマネジメント・バイ・アウト(MBO)。つまり、現在2ブランドのCEOを務めるパトリック・プルニエと彼の仲間たちに、ふたつのブランドの親会社になっているケリング・グループ傘下にあるソーウインド社を売却するというかたちを採っている。グループの公式発表文とこの件についてのプルニエの海外メディアのインタビューを読むと、今回の売却、ブランド譲渡は円満なもののようだ。ただ、プルニエとともにどのような投資家たちがこのMBOに加わっているのか、現時点では不明だ。この点は時計業界関係者にとって大いに気になるところだろう。
売却の理由は「老舗すぎる」こと!?
新型コロナウイルス危機に見舞われた結果、ユリス・ナルダンもジラール・ペルゴも、大幅な売り上げ減に見舞われたはずだ。従業員のレイオフ(一時解雇)も行われたそうで、経営は厳しい状況にある。
それなのに、プルニエらは、なぜこのふたつの名門ブランドを買ったのか? またケリング・グループはなぜ彼らに名門ブランドを売ったのだろうか?
プルニエら現経営陣が買った理由。それは言うまでもない。自分たちならこのふたつの名門ブランドのポテンシャルを発揮させ、利益を出すことができる、将来性があると考えたからだ。高級時計ビジネスは今、新型コロナ禍なのに、というか、新型コロナ禍がもたらした史上空前の金融緩和で大成功している。
では、なぜケリング・グループはこの「金の卵」を今、手放すのか?
それはグループの経営陣が、このふたつの名門ブランドを活かす時計事業戦略を描けなかった、自らの傘下に収めたものの、その扱いに苦慮していたからだろう。
グッチを筆頭に、ケリング・グループのファッションメゾンと150年を超える歴史を持つふたつの時計ブランドのキャラクター、商品戦略は大きく異なる。
230年を超える歴史を持つジラール・ペルゴも175年を超える歴史を持つユリス・ナルダンも、ケリング・グループ入り以降、シリコン素材を使った最先端の機械式ムーブメントの開発に力を入れてきた。だが、ビジネスのコアになるのは伝統的な機械式時計モデル。過去のヘリテージ(遺産)を継承して、「ブランドに歴史がある。製品のデザインが伝統に則っている」ことが魅力の核心にある。
だが、ファッションメゾンの商品に求められるのは、今を反映しつつ未来を先取りすること。つまりコンテンポラリー(現代的、流行を反映している)なことだ。グッチは1960年代から70年代のヴィンテージスタイルの魅力を反映したコレクションを展開してきた。ヘリテージと言っても約半世紀の歴史に過ぎない。ふたつの老舗時計ブランドの商品戦略とは大きく異なる。
ふたつの時計ブランドはあまりに老舗すぎて、グループの戦略にどう組み込むのか難しい。はっきり言って「持て余して」いた側面があったのではないか?
両社のここ数年の新作時計は、伝統的なスタイルよりも、コンテンポラリーなスタイルのものが中心だった。ユリス・ナルダンの複雑時計はデザインも技術も革新的なものだったし、ジラール・ペルゴが前面に押し出したのは、シンプルウォッチ、スポーツウォッチ、複雑時計をファッションのようにテーマとそのカラーで統一したものだった。
筆者はこうした新作コレクションを目にして、他のラグジュアリー・コングロマリットと比較すると新しいブランドが多いケリング・グループのカルチャーに合わせてコンテンポラリーなコレクションを中心に商品戦略を寄せているのでは、と考えていた。
だがそれは、ふたつの時計ブランドにとって、いちばんの強みを自ら封印するようなものだった。顧客の注目は、クラシックなスタイルのものに集中したはず。実際、ジュネーブで開催されたSIHHのプレスカンファレンスでも、筆者が「これはイイ。売れる」と思ったのは、「マリンクロノメーター」スタイルの文字盤ヘリテージを継承したモデルだった。
今後は正統派の「クラシック路線」へ!?
ふたつの名門時計ブランドのCEOであるプルニエは、ケリング・グループの戦略と顧客のニーズのどうしようもない乖離に「行き詰まり」「限界」を感じていたのではないか?
タグ・ホイヤーのワールドセールス&リテール事業のバイス・プレジデントを務め、アップルを経て時計業界に復帰したCEOのプルニエは、今や時計ビジネス界の伝説と言えるジャン-クロード・ビバーの部下だった。当時ビバーは彼のアップル移籍を快く承認し、その背中を押した、という話も残っている。当時、アップルウォッチを「ただの脅威」とみなしていた人が多かったスイス時計業界で、ビバーの寛大さ、偉大さが分かるエピソードだ。
スマートウォッチを経験してからふたつの名門ブランドのCEOとなったプルニエは、名門ブランドには名門らしく、ヘリテージを重視した商品展開が必要だと考えているはず。そのためにはグループの「制約」から脱却したい。そこで採られたのがMBOによる「買収」という方法だったのだろう。
今回のMBOについて一部の海外ニュースには「ケリング・グループが時計事業から撤退」とも取れる見出しがあった。日本のある新聞メディアは、パリの通信員の名前で「ケリング・グループが時計事業から撤退」という、明らかに誤った、誤報レベルの見出しの記事を配信した。
だが、時計業界の人ならご存じのように、グッチの時計事業とその時計は、主に時計専業ブランドの製品とは違う価格帯とデザインで、専業ブランドにはない魅力があり、独自のポジションを築いてきた。ライセンスビジネスの時代もあったが、今は直轄で展開している。そのビジネスを放棄することはないだろう。
しかも2021年、グッチはクリエイティブ・ディレクターのアレッサンドロ・ミケーレのデザインで、初の自社開発機械式ムーブメントを搭載し、複雑時計のトゥールビヨン機構モデルもあるウルトラスリムウォッチ「GUCCI 25H」コレクションを新たに発売している。コンテンポラリーなグッチらしさと同時に、時計愛好家も唸らせるメカニズムやデザインを備えている。まさに、これからが楽しみなコレクションだ。この誕生に関して、ユリス・ナルダンやジラール・ペルゴが深く関与したかどうか、これに関する情報はない。時計を見る限り、深く関与した形跡はなさそうだ。
2021年にグッチが発表した「GUCCI 25H」コレクションの自動巻きモデル。グッチ初の自社開発機械式ムーブメントである厚さわずか3.70mmの薄型自動巻きキャリバーGUCCI GG727.25.Aを搭載した写真の「GUCCI 25H オートマティック スチール」のほかに、クォーツムーブメント搭載モデルもラインナップされる。Ref.YA163302。自動巻き(Cal.GUCCI GG727.25.A)。24石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約60時間。SS(直径40mm、厚さ7.2mm)。3気圧防水。124万3000円(税込み)。おそらく、今後のケリング・グループの時計事業は、中核ブランドであるグッチのオリジナリティーの高いこの高級時計ライン、そして従来の価格帯のモデルを中心に展開されることになるはず。そうでなければ、あまりにもったいない。
ミケーレのラッキーナンバーを冠したというこの「GUCCI 25H」コレクションの誕生で、ケリング・グループは“歴史があり過ぎる”このふたつの老舗ブランドにこだわる必要はなくなった。
今後、ユリス・ナルダンとジラール・ペルゴは、スイスを代表する老舗時計ブランドとして、現在よりもヘリテージを生かした製品を開発し、展開することになるだろう。それは両ブランドやケリング・グループはもちろん、時計愛好家にとっても「幸福な結果」になるだろう。
そうなることを信じたい。