「遊廓というのは日本文化を育んだ空間でした。一方でそこで働く遊女たちは性的なもてなしを半ば強制されていた、人権的に問題のある場所でもありました。遊女の問題は現代社会にも通ずる部分がある。そこは子どもたちにもしっかり伝えてほしいと思います」こう語るのは『遊廓と日本人』の著者・田中優子氏である。
【画像】「少年が売春をする“芝居小屋”もあった」「夫のために遊女になった女性も」意外すぎる遊郭の実態
12月5日から始まったアニメ「鬼滅の刃」の第二期は遊廓が舞台となっている。田中氏はインタビューで、「『鬼滅の刃』を観たお子さんに『遊廓ってなに?』と聞かれた親の参考になるように」と著書執筆のきっかけについて語っている。
12月から放送が始まったアニメ『鬼滅の刃』第2期は遊廓が舞台。『鬼滅の刃』公式Twitterより
確かにこの質問を子供からされたら、どこまでの事実を、どんな言葉で説明していいのか混乱してしまいそうだ。文化的な上澄みだけを説明する? いやいや、遊廓について語るには避けて通れない話もある。かといって幼い子供に理解できるのか。そもそも自分は遊廓についてどれくらいのことを知っているのか……。
今回はそんな全国の悩める大人たちに向けて「子どもに遊廓について質問されたときの想定問答」を田中氏にぶつけてみた。すると田中氏は平易なことばで、「遊廓についての模範解答」を教えてくれた。
これがあれば子供と「鬼滅の刃」を観てもドギマギせず、大人の貫禄を見せつけられるはずだ。
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――遊廓ってどんなところ?
一言でいうと、遊女が働いている場所を遊廓と呼んでいました。例えて言うなら、遊廓は現実世界とはかけ離れた異世界を演出したテーマパークのような場所なの。山奥に行くと現実とは違った世界があって素晴らしいもてなしを受けるという昔話が中国や日本にあるでしょう? そういった異世界にまぎれ込んだ感覚をめざしていたのだと思いますよ。「浦島太郎」の竜宮城のような場所で、この世のものではない女性に会うという演出がされていたんです。
お金の面ではなかなか庶民には手の届かない存在だったの。値段は遊女屋のランクによって様々だけれど、一番ランクの高い遊女だと1回で現代で言うと約15万円が必要でした。お金持ちにとってはお小遣い程度の金額ですが、町人たちにとっては何年もコツコツ貯金してようやく貯められる金額。当時、作家の方たちは自分たちが支払わずに出版社に払わせるなんてこともあったのよ。当時は印税がなかったのでその代わりでしょうか。
【質問1】遊女ってどんな人なの?
今でいうところの芸能人みたいなもの。浮世絵にも描かれるし、小説、落語にもよく登場しました。初期の遊女は踊りが出来て楽器も弾けて歌も上手い、庶民たちのあこがれ。そして、ただ有名なだけではなく、茶の湯、生け花、着物の着こなしといった日本文化の基礎を担っていた人たちでもあります。他にも和歌や俳諧も作れましたし、書も上手で素晴らしい文章を書けたと言われていますから、教養の高い人たちだとわかります。ただ、それだけではなく、性的なもてなしを強制されていたというのも重要。歌や踊りでお客さんをもてなしつつ、最後には性的なことをしなければならなかった。
【質問2】どうして強制されていたの?
「強制されていた」というのは、遊女が家族の借金を返すために働いているからです。家族、とくに親が生活に困って借金をして、その借金を返すために娘を遊廓に売るんです。もちろん、誰でも遊女になれたわけではありません。スカウトのような人が町に来て、見込みのある女の子を連れていったんです。こういった子たちは小さいころから色々なお稽古をして、遊女としての素養を磨いていきます。花魁という位の高い遊女になれるのは、こういった人たちでした。
他には夫のために遊女になった女性もいましたね。例えば、夫が病気だけれども薬を買うお金がない、となったときに遊女にならざるをえなかった。その場合、遊廓の中でもランクの低いお店で働くことになります。小さいころから修業してきた遊女と違って素養がありませんから、人気も出ないし、ランクを上げることもできません。大人になってから遊女になった女性にとって遊廓は、まさに落ちぶれていく場所だったのでしょう。
【質問3】遊女はすごい綺麗な着物を着ているけど、お金持ちだったの?
いいえ、きらびやかな格好をしていますが、遊女はほとんどお金を持っていません。お客さんは遊女に直接お金を払うことはありませんでしたから。遊んだ代金は遊女屋(妓楼)あるいは、茶屋という遊女屋とお客さんをつなぐお店に支払いました。遊女屋に入ったお金は遊女の着物やかんざし、履物、髪結いの代金になりました。さらに食費などの生活費を引いた残りで借金の返済をしなければいけない。その後に残ったのがお給料。遊女側に支払われるお金はほとんどなかったはずです。
ランクの高い花魁になってもお給料は少なかったでしょうね。花魁には新造という弟子が付くのですが、弟子が着物や修業の稽古代や、催し物の代金を自分で払うことができない場合、その時いいお客さんが付いている花魁は「いいわよ、助けてあげる」と、お代を出してあげることもあったのです。当然、そのお金も給料から引かれてしまいました。でも遊廓の外に出なかったようなので、お金はほとんど必要なかったのではないかしら。
ちょっとわき道にそれますが、江戸時代は今と違ってチップ文化が浸透していました。遊女屋に上がったときにお客さんは色んなチップを配ったようです。でも、そのお金も遊女にわたることは無く、遊廓が回収していました。先ほどの15万円の中にはそういったお金も入っています。
【質問4】本当にあんなに豪華なキラキラした町だったの?
アニメや映画などで描かれているきらびやかな遊廓は、実際の遊廓とは少し違ったようです。着物や飾りもあんなにキンキラキンでなく、もっと高級で品が良いものを選んでいました。井原西鶴という作家が遊廓を舞台にした小説「好色一代男」を書いたのは江戸初期。この時代の遊女はかんざしを挿していないし、前帯といって大きな帯を前に垂らすことはしていません。さらには化粧もしていなかったようです。
遊女になる女性は、清潔で化粧をしなくてもいいような綺麗さが必要でした。ところが、時代が経つにつれて様々な遊女が働くようになり、同じようにはいかなくなったのでしょうね。だんだん化粧もするようになって、着物も豪奢になっていって、かんざしも挿すようになりました。アニメや映画で描かれる遊廓は江戸の終わりころの遊廓が参考になっているのかなと思います。
【質問5】遊郭では男の人も働けたの?
遊廓の中では男性も働いていました。例えば楼主という遊女屋の経営者はほぼ男性でしたし、現代でいう遊女のマネージャーのような役割は女性とともに男性も務めることがありました。高級な遊廓はすごく手入れをしっかりしているので、掃除などの下働きをしている人も多く、経理などの事務をしている人もいましたね。
他にもお客さんと遊女屋をつなぐ茶屋にも働いている人はたくさんいました。お客さんを茶屋に案内する人、遊女を迎えに行ったり、遊女が茶屋にお客さんを迎えに行くときに三味線とかの荷物をもったり、芸者さんの手配をしたり、仕出し屋さんを手配したり、茶屋もたくさん仕事があります。遊女だけが目立つ遊廓ですが、それを支えるために多くの人が働いていました。
実は遊廓ではないけれど15、6歳までの男の子がいくところがあったのよ。若衆、芝居子と言うのですが、芝居の世界に入って小さいころから修業をつむ子どもたちです。大きな芝居小屋は3つあったのですが、その下に小さな芝居小屋が今の両国あたりにたくさんありました。そこはランクの低い役者が入るところで、男の子は10代中頃には売春、つまり性的なことをしてお金を稼いでいたの。江戸時代に夜は灯りがないので昼間は芝居をして、夜暗くなると売春していたようです。
【質問6】借金が返済できないとどうなるの?
実は、借金が返済しきれなかった遊女がどうなったのかはよくわかっていないんです。遊女は年季という契約の期限が決まっていましたので、おそらく、返済しきれるように計算していたと思います。遊女の着物は町では着られないので、売って返済にあてた可能性もありますね。
遊女でいられるのはとても短い期間でした。16歳で始めて、長くても10年働けるかどうかだと思います。年齢を重ねるとお客さんが付かなくなってしまうので、だいたい二十代前半で遊女として働くのは難しくなってきます。
ひどい場合には「転売」されることもありました。別の場所から借金して、別の場所で遊女をやるケースです。その場合、どんどんランクは下がって行きます。吉原の中で落ちていくケースや、場所をかえて深川や品川の遊廓に勤めるケースもありました。吉原と深川・品川では待遇や衛生面で差があったのよ。吉原の方がしっかり管理されていて、暴力や病気からの安全も確保されていたようです。性病検査は明治になってから始まったのですが、それでも吉原で大きな病気が蔓延したということはありません。守られているところだったのね。
【質問7】嫌な仕事なのにどうして遊女になるの?
それは、女性は家族という観念に縛り付けられていたからでしょうね。当時は今よりも家族が日本人の考え方、行動の中心にありました。女性が遊女として売られることを承諾する気持ちには、親のため、家族のためなら仕方ないという思いがあったんです。そう考えるようにしつけられていたんですね。
家族の中で育って、大きくなって結婚して、また新しい家族を作る。家族の中にしか生きる場所がないのが当時の女性でした。でも男性も同じく家族に縛られていました。「〇〇家の長男はこうであらねばならない」と言われたり、職業も自由に選ぶことができなかったり。
皮肉なことに、遊廓はそういったしがらみからは自由な空間だったんです。お金さえあれば現実世界のしがらみを忘れることができる、それが、人々が遊廓に惹かれた理由の一つなのかもしれません。
【質問8】どうして遊郭はなくなったの?
遊女は日本文化を反映していた人たちなんだけれども、だんだんと庶民化していってしまいました。それは値段が安くなったのもありますが、文化の面がなくなっていってしまったんです。その上に外国の人から人権問題だと指摘されてしまいました。自分の意思ではなく半ば強制的に遊女をしなければならないことを、イギリス人の弁護士に「遊女は奴隷のようだ」と指摘されてしまったんです。そこで、当時の政府は芸娼妓解放令を出しました。
一部の遊女たちには借金が残っていましたが、帳消しにして家に帰ることができたの。料理屋の経営をした人もいたようです。女性たちは今と違って裁縫ができましたので、着物の洗い張り(クリーニング)も可能でした。
でもね、他に仕事が無い女性たちもたくさんいました。今よりも女性が就ける仕事は限られていましたから、どうしても売春して生きていかなければならない人がいたのです。その人たちのために遊廓は形だけ残ってしまい、だんだんと文化的な側面が失われていってしまったのです。
ただ、女性が男性よりも仕事の幅が狭いというのは現代も同じです。子どもたちにとってはまだまだ実感できないでしょうけれど、この点はしっかりわかってほしいなと思います。
(「文春オンライン」特集班/Webオリジナル(特集班))