【震災10年の一日】14時46分、列島に広がった祈り

huaweiwearabless 07/04/2023 710

死者・行方不明者、震災関連死を含め2万2192人が犠牲になった東日本大震災から、11日で10年。復興事業を中心とした第1期の「復興・創生期間」を経て、今後は心のケアなどに取り組む第2期に移ります。昨年はコロナ禍で中止された政府主催の追悼式が2年ぶりに開かれ、発生時刻に合わせて全国で祈りがささげられました。各地の一日の動きをタイムラインで振り返ります。

3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。

鎮魂の明かり、被災地照らす

宮城県多賀城市のJR多賀城駅前の広場では、鎮魂の明かりをともすイベントを地元の市民団体が開いた。夕暮れの中、LEDライトが入った約450個の紙コップが「3・11」を浮かび上がらせた。

多賀城市では震災で200人以上が犠牲になった。市職員の佐々木多恵子さん(40)は、7歳の長男、5歳の長女、1歳の次男と一緒に訪れた。「3人とも震災の後に生まれたので、たくさんの被害があったことを伝えたくて一緒に来た。これからも伝え続けないといけない」と話した。

後世へ、記憶伝えるキャンドル

仙台市青葉区の中心部にある勾当台公園には、「震災を未来にいかす」や「災害に負けず頑張ろう!」といったメッセージが書かれたキャンドル約2千本が並べられた。この「3・11キャンドルナイト」は震災の風化を防ぐため、2012年から宮城県内の高校生らが中心になって続いてきた。

実行委員長で仙台青陵中等教育学校の佐々木淳大(じゅんた)さん(17)は、このキャンドルが「震災を体験した世代が10年前を思い出し、知らない世代へ記憶を伝えていくきっかけになってほしい」と思いを語った。

自身も10年前は身の回りで何が起こっているかが分からず、数年後に被災者の話を聞くことで、はじめて震災の被害の大きさが分かったという。行事に直接関わるのは今回が最後だが、「今後も震災の記憶を伝える取り組みに関わっていきたい」と話す。

「日米両国はこれからも『トモダチ』」

東日本大震災の発生から10年になるのに合わせ、菅義偉首相とバイデン米大統領は共同メッセージを出した。加藤勝信官房長官が11日午後の記者会見で発表した。

犠牲者への哀悼の意や被災者へのお見舞いのほか、震災後に日米両国が行った支援活動や自衛隊と米軍の連携を強調。当時のオバマ政権で副大統領だったバイデン氏が震災発生から5カ月後に宮城県名取市や仙台市を訪れたことに触れ、「日本国民の驚くべき粘り強さを目の当たりにした」とした。また、米軍の救援活動「トモダチ作戦」を念頭に、「日米両国はこれからも『トモダチ』として、手を携えて前進していく」と結んだ。

加藤氏によると、共同メッセージは、バイデン氏の就任後に初めて行った1月の電話協議で、首相が「被災者の方々を勇気づけるメッセージを2人で出そう」と提案したという。加藤氏は「日米両国が東北地方の復興、よりよい未来の実現のため、手を携えて前進していくとの両首脳の決意が込められている」と語った。

終着点なき心の復興

岩手県大槌町が主催する追悼式で、遺族を代表して倉堀康さん(37)が追悼の辞を述べた。両親や兄ら親族6人を亡くし絶望感でいっぱいになったが、「地域の方やボランティアの方に支えてもらい、新しい出会いができた」。仮設住宅ではコミュニティーづくりに参加、有意義な時間を過ごしたと言う。「ハード面の復興はほぼ終わったが、終着点のない心の復興には、まだまだ時間が必要だと思います」

大槌学園8年の菊池康介さん(14)は児童・生徒を代表して追悼の辞を述べた。明治、昭和の災害の石碑が各地域にあることを授業で知り、「学園が『生きた石碑』としての役割を担い、被災した私たちが、震災を経験していない子に伝えていきたい」と話した。

仙台で追悼式、遺族ら256人参加

仙台市の追悼式が、同市宮城野区の宮城野体育館で開かれ、遺族ら256人が参列した。昨年は新型コロナの影響で中止され、追悼式の開催は2年ぶり。

農家の佐藤稔さん(71)は津波で長女優子さんを失い、町内会長を務めていた三本塚地区(同市若林区)では12人が亡くなった。遺族代表として言葉を述べ、犠牲者に「住む世界は違っても、私たちの心の中に生き続ける。良き日もあしき日も、ともに前へ進んでいきましょう」と呼びかけた。

郡和子市長は、式辞で「今後も一人一人に寄り添った心のケアを続けていく」と話した。

語り部「自分事としてとらえて」

宮城県山元町が昨年9月に一般公開した震災遺構「中浜小学校」には多くの見学者が訪れた。県南部にある唯一の震災遺構。海から約400メートルにある2階建て校舎は津波が直撃し、児童や地域住民ら90人は屋上の屋根裏部屋で命をつないだ。

語り部ガイドとして校舎内を案内する門間裕子さん(68)は、震災当時は1年生の担任だった。「津波の脅威を見て、感じて、防災を自分事としてとらえてほしい」と見学者に訴えた。中浜小は母校で、校舎への思い入れは強い。「遺構になり、これからもたくさんの命を守れる。自分も語り部として経験したことを伝えていきたい」

この日は当時の在校生も顔をみせた。5年生だった志小田(しこた)紗津生さん(21)は8年ぶりに校舎を見に来たという。「昔は大きな廊下だと思っていたが、小さく感じる。津波が校舎に当たるドボーンという音をまだ覚えている」と話す。

震災の翌朝に自衛隊のヘリに救助され、海辺にあった自宅は全壊する被害にあった。「この10年、多くの人に助けられた。次は自分が誰かの助けになりたい」と、介護職に就くことを思い描く。

村井知事「復興完了に向けた施策、最優先で」

1万1千人を超える犠牲者が出た宮城県の村井嘉浩知事は、同県多賀城市の追悼式に出席した。

村井知事は「大震災から10年間、国内、世界中から支援や励ましをいただき、復旧復興の歩みを進めてきた」と振り返った。今後については、「今もなお将来への不安を抱えた方々が大勢いることを忘れず、被災者の心のケアやコミュニティーの再生など、復興完了に向けたきめ細かな施策に最優先で取り組む」と述べた。

人が携わり、思いを届けられる公園に

宮城県石巻市の石巻南浜津波復興祈念公園内の「がんばろう! 石巻」の看板前では、集まった約1千人が黙禱(もくとう)した。その後、「追悼の思い」「過去」「未来」を象徴する3色の風船を一斉に放った。

主催する市民有志「東日本大震災追悼3・11のつどい実行委員会」の実行委員長で、震災から1カ月後に看板を建てた黒沢健一さん(50)は「ご遺族にとっては今日は命日。10年経ったというより、現在進行形の悲しみがあるように感じる。ただ工事でできた公園ではなく、人が携わり思いを届けられる公園であってほしい」と話した。

10年経っても、変わらぬ後悔

岩手県宮古市の田老地区では、約300人の住民らが防潮堤の上で黙禱(もくとう)し、追悼の思いを込めて風船を飛ばした。

山本英貴さん(44)は、祖母タケさんの遺影を手に、家族とともに参加した。震災時、地区内で離れて暮らしていたタケさんは3週間後に自宅近くで見つかった。「10年経っても、おばあちゃんと一緒に避難できなかった後悔は変わらない」

娘の雪愛(せら)さんは、震災から4カ月後に生まれ、いま9歳だ。「顔を見せてあげたかった」と英貴さん。「震災を知らない娘の世代、さらにその下の世代に語り継いでいくことが、生き残った自分たちの責務だと思う」

遺族ら80人、花を供え

岩手県大槌町の吉里吉里漁港では、口づてに集まった遺族ら80人ほどが花を供え、海に向かって祈った。

家族で手を合わせた盛岡市の服部瞳さん(42)は、実家が津波に流されて両親を失った。その翌年に長女の百華(ももか)さん(8)、次の年に次女の楓華(ふうか)さん(7)を授かった。2人を「両親の生まれ変わりだ」と思っている。

子どもたちは祖父母を写真でしか見たことがないが、瞳さんは「津波で天国に行ったんだよ」と教え、毎年の寺の法要などにも連れて行く。「10年たっても、ぽっかりと心が空いた感じです」

銀座で鳴り響く鎮魂の鐘

時計塔で知られる東京・銀座の「和光」では、時計塔の鐘が11回にわたって1分間鳴り響いた。震災の翌年から続く取り組みで、10年目となる今回のテーマは「未来への希望の鐘」。

旧大川小、献花台に花束並ぶ

児童74人が犠牲になった宮城県石巻市の旧大川小学校には、多くの人が訪れた。駐車場の一角に設置された献花台には、訪れた人々が供えた花束が並んだ。防災無線が鳴り響くと、集まった人々は一斉に祈りを捧げた。

津波で大川小6年だった次女みずほさん(当時12)を亡くした佐藤敏郎さん(57)は「気づいたら10年、という思い。10年色々な手応えや気づきがあったが、また新たなスタートラインが引かれたというだけ。話を聞きたいという人が1人でもいれば、伝えていきたい」と話した。

震災当時、石巻専修大(石巻市)の1年生だった京都府の会社員小松玲央さん(29)は、震災研究のゼミで仮設住宅の実態調査などをした。卒業後も毎年3月11日には大川小を訪れ、職場でも当時の様子を伝えているという。

「大川小はこの1年で整備が進み、きれいになった。石巻のまちも大きなマンションが建って、在学中と比べて大きく変わった10年間だった。でも、ここからが本当の復興。毎年いろんな災害が発生する中で、震災の経験を後世に伝えていくことが大事」と話した。

静まる槌音、手を合わせる人々

新型コロナ対策で一堂に会しての式典がなかった岩手県田野畑村。島越地区の津波跡地にある「島越ふれあい公園」では、住民主催の追悼式が開かれた。

地区は高さ17・9メートルの津波に襲われ、17人が死亡し10人が行方不明のまま。地震発生時刻を知らせるサイレンが鳴ると、近くで建設が進む防潮堤の工事の音がやみ、集まった住民約百人が静かに手を合わせた。

箱石大典さん(55)は「たくさんの人が犠牲になり、被災した。震災からの10年は長く、短かった」。そう言って、津波高を示した17・9メートルの公園内のモニュメントを見上げた。

空き地の多さは「この街の可能性」

岩手県陸前高田市気仙町の高台にある泉増寺(せんぞうじ)に、約40人の遺族や地元の人たちが集まった。午後2時46分には海などに向かい、黙禱(もくとう)した。亡き友人を思い、涙を流す人もいた。

震災で母を亡くした伊藤英(さとる)さん(38)は父と訪れた。黙禱後、半鐘を鳴らすと「新しい一年がスタートするな」と気を引き締めた。

ツバキを育て、街を盛り上げるプロジェクトに参加している伊藤さん。寺から見える街を見ながら、「10年でここまできた。空き地の多さは、この街で多くのことができる可能性が秘められているということ。次の世代のため、色々とアクションを起こしていきたい」と話した。

巨大地震に備え、都営地下鉄で訓練

東京都交通局が都営地下鉄の全線と都電荒川線、日暮里・舎人ライナーの各路線で、地震発生を想定した車両の一時停止訓練をした。運行中の全車両が、最大4分間停止。震災時の経験の風化を防ぎ、今後予想される首都直下地震などの巨大地震に備える目的があるという。

首相「復興の総仕上げの段階に」

政府主催の「東日本大震災10周年追悼式」が東京都千代田区の国立劇場で開かれ、菅義偉首相は式辞で「被災地は復興の総仕上げの段階に入っている」と述べた。「災害に強い国づくりを進めていくことを改めて固く誓う」とも語った。

首相は「被災地の復興は着実に進展している。地震・津波被災地域は住まいの再建・復興まちづくりがおおむね完了した」と強調。一方で「被災者の心のケア」や新型コロナ感染症対策などを課題として挙げたほか、「原子力災害被災地域においては、帰還に向けた生活環境の整備や産業・生業の再生支援などを着実に進める」と述べた。

遺族らに「今なお哀惜の念に堪えない」としつつ、「大きな犠牲の下に得られた貴重な教訓を決して風化させてはならない」とも指摘。「震災の教訓と我が国の知見や技術を世界の防災対策に役立てていくことは我々の責務だ」と訴えた。

陸前高田で合同追悼式

岩手県陸前高田市の高田松原津波復興祈念公園で県と市の合同追悼式があり、出席者らが黙禱(もくとう)した。

遺族代表の丹野晋太郎さん(25)はあいさつで、「家族や周囲の人に日々感謝し、その存在は決して当たり前ではなく、『死』と隣り合わせで生きていることを知ってほしい」と話した。津波で父母と祖母を失い、現在は福祉とアートに関わる企業でディレクターをしている。「今度は、自分が誰かの役に立てるような人間になりたい」

追悼式には約80人が出席。新型コロナ対策のため、会場周辺は入場が規制された。

防災庁舎前、手を合わせる人々

宮城県南三陸町の防災庁舎前。防災無線からサイレンが鳴ると、同県栗原市の阿部淑子さん(61)は手を合わせた。「お父さん、みんな元気でやっているよ。天国で見ててね」

すぐ側にいた2~5歳の3人の孫は、不思議そうな顔を浮かべたり、サイレンの音に驚いたのか泣き出したり。「『なんのこっちゃ』って感じでしょうね」。町職員だった夫の良人さん(当時53)は、娘が結婚したことも、孫が生まれたことも知らない。あの日、防災庁舎に避難したが、津波にのまれて亡くなった。

今ごろは定年を迎えた夫と、第二の人生を一緒に過ごしていたはずだった。

「10年でひと区切りにはできなかった。長いようで短かった」

しかし、最近小学2年生になった別の孫は、学校で震災について学んだらしく、質問を浴びせてくる。「じいじは津波で死んじゃったの」「どうして?」。

今はまだ、どうしてここに連れてこられたのかを理解できていない幼い孫たちにも、いつか夫のことを話そうと思う。「毎年ここに来て思うんです。『よし、明日からがんばるぞ』って」

アップルCEO「回復力や強さを称賛」

米アップルのティム・クック最高経営責任者(CEO)は10日夜(日本時間11日午後)、東日本大震災の発生時刻にあわせ、犠牲者を追悼すると共に、日本の「回復力や強さを称賛する」とツイートした。

クックCEOは1260万人のフォロワーに向けて、「3月11日の東日本での壊滅的な悲劇から10年が過ぎたなかで、私たちは失われた命を追悼します」と表明。「日本の友人たちや同僚たちと共に強く立ち、彼らの回復力や勇気、強さを称賛します」とつづった。

東電社長、訓示後のぶら下がり取材なし

福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)の廃炉作業を続ける東京電力の役員や社員らは、震災の発生時刻にあわせて黙禱(もくとう)した。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、小早川智明社長は東京の本社からテレビ会議などを使って、福島第一にいる社員らに訓示した。小早川氏は「福島の復興、福島の未来のために、それぞれの持ち場で全力を尽くしてほしい」と述べた。

原発事故後、東電の社長が3月11日に福島に来県しなかったのは初めて。13年から続けてきた訓示後のぶら下がり取材もなかった。

地震と津波で被災した第一原発は、1~3号機の原子炉を冷却できなくなり、核燃料が溶け落ちる「メルトダウン」を起こした。溶け落ちた核燃料(デブリ)は計約800~900トンとされるが、取り出しはまだ始まっていない。

「災害時、役立てるラジオに」

京都府の九つのコミュニティーFMラジオ局が防災番組の合同放送を企画し、京都市中京区の同時代ギャラリーで公開収録した。震災当時の記憶やその後の取り組みなどについて、各局の担当者がリレートークを行い、6局が生放送した。

震災の経験や記憶を継承することや、大規模災害に備え、連携を深める狙い。テレビ会議システム「Zoom(ズーム)」で、同時代ギャラリーと各局のスタジオをつないだ。

宇治市、城陽市、久御山町がエリアの「FMうじ」は震災後、東北の人々の声を毎週届けてきた。パーソナリティーの喜田晶子さんは「小さな変化も放送し、災害時に役立てるラジオにしたい」と語った。

500本のろうそく「忘れない 3・11」

神戸市中央区の東遊園地で、阪神・淡路大震災の犠牲者を悼むガス灯「1・17希望の灯(あか)り」の火を、関係者らがガラス容器に入ったろうそくに移し始めた。約500本のろうそくは「忘れない 3・11」の形に並べられ、東日本大震災の発生時刻の午後2時46分には、約50人がその周りで黙禱(もくとう)。通りかかった市民が立ち止まって祈りを捧げる姿もあった。

参加した藤原祐弥さん(19)は、神戸出身だが阪神大震災後に生まれた。高校時代、東日本大震災で被災した宮城県石巻市や東松島市を防災学習で訪れ、災害について深く考えるようになったという。「東北について思いを寄せることで、地元で起きた震災についても改めて考えさせられた。東日本や阪神の大震災について、若い世代で語りついでいきたい」と話した。

大槌・吉里吉里で震災犠牲者の法要

岩手県大槌町吉里吉里の吉祥寺で震災犠牲者の法要があり、約100人が参加した。新型コロナ対策のため、読経は境内で聞き、順番に本堂に入って拝んだ。

お年寄りの多い列の中に、運動着姿の高校生がいた。県立大槌高校2年、岡谷美海さん(17)はバレー部の練習の後にかけつけた。母と幼い2人の妹、曽祖母の4人を震災で亡くした。

「こういう時でないとちゃんと近況報告できないと思って来ました。保育士になって地元で働くために短大をめざして勉強がんばっているので、見守っていてくださいとお願いしました」。この10年、つらい時もあったが、「いつも一緒にいてくれる友達と普通に話すことで気が楽になれました」。

気仙沼の高台に復興祈念公園

宮城県気仙沼市の高台に、震災復興祈念公園が開園した。遺族らは、気仙沼湾に向かって立つ「祈りの塔」と名付けられたモニュメントに手を合わせた。

市内の福祉施設が津波に襲われ、入所中だった祖母(当時94歳)を亡くした高橋正佳さん(43)=仙台市=は銘板を見ながら「10年経っても(祖母が亡くなった)現実感がない。私が母に怒られると間に入ってなだめてくれる優しい人だった。こうして祖母の名を見ると、改めて再会した気分。まちは新しくなり、昔の風景が消えて寂しさもあるが、この街の頑張っている姿を応援していきたい」と語った。

気仙沼市の菅原茂市長は「震災10年を経て、思いをはせることのできる場所がつくれた。追悼、伝承、再生に向けた場として、末永く受け継ぎ、防災に役立てていきたい」と話した。

 【震災10年の一日】14時46分、列島に広がった祈り

「そばにはべりながら10年」

宮城県石巻市の災害公営(復興)住宅が立ち並ぶ地区の集会所では、僧侶や牧師ら宗教者による傾聴移動喫茶「カフェ・デ・モンク」が始まった。

震災後、仮設住宅や復興住宅を毎月のように回り、被災者の話を聞くことに徹してきた。集まった約30人を前に、金田諦應(たいおう)住職(64)が「皆さんのそばにはべりながら10年を過ごして参りました。次の10年もみんなで力を合わせて生きていきたいと思います」とあいさつした。

参加した山下忠幸さん(61)は「妻に楽しい場所と聞いて初めて参加しました。この日をお坊さんと過ごせるのは安心感があります」と話した。

「受験終わったよ、見守ってくれてありがとう」

雄勝湾に面した宮城県石巻市雄勝町の国道398号の道路脇で、仙台市太白区から祖父母や母と訪れた佐々木なつさん(15)は、持参したガーベラを1本ずつ海に投げ込んだ。雄勝町に住んでいた父方の祖父母、佐々木勝義さんと秀子さんは今も行方不明。2人ともお酒が好きだったから、缶ビールも海に注いだ。

震災当時5歳だったなつさんに、震災の記憶はあまりない。でも、小さい頃、勝義さんの船に乗せてもらったり、海で泳いだりして遊んだことは覚えている。

なつさんは4月から高校生になる。「記憶はないけど、思うことはいっぱいある。受験が終わったよ、お空から見守ってくれてありがとうと祈った」と話し、目を潤ませた。

楽天選手ら試合前に黙禱

プロ野球オープン戦、東北楽天ゴールデンイーグルス―千葉ロッテマリーンズ戦が行われる静岡・草薙球場では、半旗がスコアボードの上に掲げられた。試合前、両チームの選手らがベンチ前に整列。球場に集まったファンと共に、1分間の黙禱(もくとう)を捧げた。

楽天の銀次選手は岩手県普代村出身で、当時からチームに所属する。「10年は一つの節目に過ぎない。自分は常に(被災地を)思って、野球をしているし、生活をしている。ちょっとしたプレーでも、全力の姿でもいいので、それを見て元気になってほしい」と話した。

試合前の練習では、楽天の監督、選手、スタッフら全員が「日本一の東北へ」と書かれた被災地へのチャリティーTシャツを着用した。

「見せましょう」の嶋、被災地に心寄せ

「見せましょう、野球の底力を」

10年前、プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルスの選手会長だった嶋基宏のスピーチは、多くの人の心を動かした。現在、ヤクルトスワローズの2軍で調整を続ける嶋は、埼玉・戸田球場での練習後に取材に応じた。

「海岸沿いが少しずつきれいになるなど、目で見える部分は復興してきていると思います。けど、遺族のみなさんが心に負った傷はなかなか癒えることはない。目に見える部分は復興していても、目にみえない部分はまだ復興することはできないんじゃないかな」と被災地に心を寄せた。

嶋は36歳になった。「スポーツは心を一つにしたり見ている人を感動させたり、周りにものすごい影響を与えることができるんだとこの10年で感じました。僕の野球人生も残り少ないと思いますが、少しでも、そういう風に感じてもらえるように、一日一日、一生懸命にプレーしたい」

「あなたの分も2倍生きるからね」

宮城県南三陸町の震災復興祈念公園を訪れた、同県涌谷町の高校教諭の女性(48)は、海に向かって手を合わせた。「忘れない。でも、みんなの分も前に進むね」

同県気仙沼市出身の女性は、震災で友人や教え子を失った。気仙沼で津波にのまれた高校の同級生で親友だった女性(当時38)は今も行方が分かっていない。

以来、毎年3月11日は、南三陸や気仙沼の沿岸部を歩いてきた。「この海のどこかにいると思うんです。もう諦めないといけないのかな」。訪れるたび、町の風景を撮り続けてきた。「変わって行く町を見るのはつらい。でも、受け入れて見届けないといけないとも思う」

3月11日は親友を失った日でもあり、自分の誕生日でもある。この日朝、家を出る時、「お誕生日おめでとう」と父に言われた。10年ぶりだった。午後2時46分には、親友と過ごした気仙沼の海で酒と花束を手向ける。「あなたの分も2倍生きるからね」。親友も、誕生日を祝ってくれると信じている。

東電ホールディングス社長「福島の責任全うする」

参院予算委員会では東京電力ホールディングスの小早川智明社長が出席。「今なお福島の地元の皆さま、社会の皆さまに多大なるご負担、ご心配をおかけしておりますことを、深くおわびを申し上げます」と謝罪した。

その上で「当社の事故により、多くの方々が避難を余儀なくされ、事故から10年を経過してもなお、お戻りできない方が多くいることや、避難指示等が解除されても、ご帰還が進んでいないことも承知しております。当社の最大の使命は、福島の責任を全うすることでございます」と述べた。

津波到達地点を示す石碑

岩手県山田町の町役場前に津波到達地点を示す石碑が設置され、除幕式があった。

寄贈した山田ロータリークラブの生駒(いこま)利治会長は「震災で亡くなった方への鎮魂の祈りも込めて、節目の日を選んだ。町の防災・減災の一助になれば」。

震災では海から300メートルほど離れた町役場まで津波が達し、地下1階が浸水した。町全体で800人以上が犠牲になった。佐藤信逸町長は「津波による犠牲者を二度と出してはならないという思いで復興を進めてきた。後世にも教訓を伝えていきたい」と話した。

豊田会長[東北の未来を作る思いで…」

日系自動車メーカーでつくる日本自動車工業会の豊田章男会長(トヨタ自動車社長)がウェブ会見。この10年を振り返り、「実業を通じて東北の未来を作る思いで取り組んできた」と話した。

震災以降、東北の自動車関連産業の雇用は8千人増えて4万2千人となり、年間の出荷額は8100億円増えて2兆円を超えた。トヨタは東北を東海、九州に続く「国内第3の拠点」と位置づけ、主力の「ヤリス」などを組み立てている。

津波の跡地に桜植樹

岩手県久慈市の久慈湾内にある半崎緑地公園には市民約100人が集まり、桜の苗木80本を植樹した。

桜が植えられたのは、津波の被害を受け、がれきが積み上げられていた土地。順調に育てば、5年後には花を咲かせる。遠藤譲一市長は「花を結んだ桜が、子どもたちが震災を忘れず、前に進むシンボルになってほしい」。

津波で全壊し、5年後に再生オープンした久慈地下水族科学館「もぐらんぴあ」の宇部修館長(64)は「全壊した水族館や街を見た時は『これはもうだめだ』と思った。でも、ここまで来た。久慈の復興を支えたい」と話した。

「名前忘れない」

宮城県女川町の町役場敷地内に設置された慰霊碑には、次々と人が訪れた。仙台市の団体職員の男性(43)が慰霊碑に刻まれた犠牲者の名前に手を触れていた。

震災の前年まで町内の老人ホームで働いていて、同僚や利用者たち約20人分の名前があるという。「お世話になった人ばかり。何もしてあげられなかった」と悔やむ。せめて名前を忘れないでいようと、毎年のように3月11日に通っている。「もしあの時、自分が女川にいたら何かしてあげられたのかな」。安らかに、と祈った。

遺品のはんてん「10年たって見られるように」

震災時に水門の閉鎖や避難誘導などをしていて8人の消防団員が亡くなった岩手県釜石市で、殉職消防団員顕彰碑献花式があった。亡くなった団員の父親が寄付したお金で建てた碑に向かい、祈りを捧げた。

副団長だった福永勝雄さん(当時66)を亡くした妻の安子さん(71)は、「10年してやっと、当時夫が着ていたはんてんを出して見ることができるようになった」。震災後、夫の母も亡くなった。「介護もあり大変な10年でした。あっちで一緒に暮らしていると思います」

海岸で行方不明者の捜索

福島県浪江町棚塩の海岸では県警と消防などによる行方不明者の捜索が始まった。町では津波で151人が亡くなり、いまも31人が不明のままだ。

警察官らは流木が積み上がった砂浜を重機や熊の手で掘り起こした。「家族や関係者の思いを胸に、一人でも多くの不明者や手がかりを発見したい」と和田薫・県警本部長。この日、福島県内では沿岸部で県警など約530人が捜索に参加した。

枝野氏「原発に依存しない社会を」

東日本大震災の発生時に官房長官として対応に追われた立憲民主党の枝野幸男代表は、被災地に向かう前に国会内で記者団の取材に応じ、「(復興について)決して風化させることなく、しっかりと最後まで被災者、被災地のみなさんに寄り添って進めていく。ここからが本格的な復興のスタートだ」と話した。

原発については「稼働しなくても日本の社会は成り立つということが、この10年間ですでに実証されている」とし、「原発立地地域をはじめとして、地域では今なお依存せざるをえないみなさんに寄り添って、原発に依存しない社会をしっかりと恒久的なものにしていく」と語った。

枝野氏は今後、首都直下地震などが発生する可能性を念頭に「一日でも早く、より強力に、いざというとき、国民生活を守れる、機能する行政を取り戻していく」と述べ、「危機管理庁」の創設を訴えた。

参院予算委員会で黙禱

参院予算委員会の冒頭、東日本大震災の犠牲者に黙禱(もくとう)をささげた。

僧侶ら冥福祈る

宮城県気仙沼市の地福寺で、震災犠牲者の追悼法要が始まった。僧侶4人が読経し、冥福を祈った。

寺は10年前、津波で1階の屋根の直下まで浸水した。当時の住職だった片山秀光さん(80)によると、檀家(だんか)の約150人が犠牲になった。片山さんは「一日一日が精いっぱいで、振り返る余裕はなかった。悲しいという心が、10年経ってやっと湧いてくるようになった」と、つぶやいた。

高校生ら、手作りの大漁旗で感謝示す

岩手県釜石市の釜石商工高校のグラウンドでは、同校と釜石高校の生徒約40人が、手作りの大漁旗を振り、郷土芸能の虎舞を踊りながら復興支援への感謝を伝えた。

「Thank you」や「謝謝」など「ありがとう」を意味する4カ国の言葉が書かれたプラカードを掲げた生徒たち。晴れ渡った空に、太鼓や笛の音が鳴り響いた。

この日の様子を撮影した動画は「高校生平和大使」がスイス・ジュネーブの国連欧州本部を訪れる際に持って行き、上映する予定という。

釜石高2年で高校生平和大使の太田堅さんは英語で「いつまでも被災地釜石ではありません。復興しています」とアピールした。

津波の跡地にツバキ

岩手県陸前高田市の津波跡地で、市の花であるツバキが植樹された。

一般社団法人「レッドカーペット・プロジェクト」が「津波の跡地を赤いじゅうたんに染めよう」と昨年から始めた。約40人が参加し、かさ上げされた土地に、高さ30~50センチほどの苗木を3月11日に合わせて311本植えた。

市出身の高校2年生、花輪美友(みゆう)さん(17)は小学生の時にがれきだらけの街を見ている。「10年たってあの場所に自分がツバキを植えているとは思わなかった。うれしい」と話した。

法人理事の伊藤英(さとる)さん(38)は、津波で母涼子さん(当時57)を亡くした。「未来をつくるプロジェクト。年代も地域も越えて、子どもや孫の代まで続く活動にしたい」と話した。

原子力規制委員長「安全神話、復活許さない」

更田豊志・原子力規制委員長は11日午前10時から、職員向けに訓示した。東京電力福島第一原発事故の教訓や反省が薄らいでいないか、点検することを呼びかけるとともに、事故は起きないものとしていた安全神話について「復活を許さない」と誓った。

更田氏は、新規制基準を「世界で最も厳しい水準」と表現することや、東電柏崎刈羽原発で起きた不正侵入の規制委内での情報共有の遅れ、審査や検査用の書類の整備ばかりに力を注ごうとする傾向などに懸念を表明。現状への満足や過度のマニュアル化に釘を刺し、「初心を忘れず、継続的な改善が必要だ」と訴えた。

新型コロナウイルス感染症対策で、昨年に続いて東京都港区の規制委内にある記者会見室でカメラに向かって一人で語りかけた。職員はインターネットを通じて訓示を聞いた。

経済産業相「エネルギー政策の原点は震災と原発事故」

梶山弘志経済産業相はエネルギー政策を審議する有識者会議の冒頭で、「エネルギー政策を進める上での原点として、東日本大震災、東京電力福島第一原発の事故は忘れてはならないと思っている。福島復興を着実に進めていくこと、いかなる事情よりも安全性を最優先にエネルギー政策を進めていくことは大前提であると考えている」と述べた。

この日の会議では、2050年の脱炭素化も見据えた30年のエネルギー政策のあり方を議論する。梶山氏は議論にあたり、「北海道胆振東部地震や令和元年房総半島台風など、自然災害によって大規模停電が発生し、エネルギー安定供給の重要性を再認識している」と指摘。そのうえで「災害に強いエネルギー供給体制の構築と、災害による影響から早期復旧といったレジリエンスの観点が不可欠だと考えている」と話した。

決壊ダムの現場、慰霊碑の序幕

震災で農業用の藤沼ダムが決壊し、下流の7人が死亡し、1人が行方不明のままの福島県須賀川市で慰霊碑の除幕式があった。

慰霊碑は関係者が寄付を募るなどして、「陸の津波」と呼ばれた濁流が押し寄せた防災公園内に設置した。親族を亡くした森清道さん(64)は「10年目で慰霊碑ができて感慨深い。内陸でも悲劇があったことを語りついでいきたい」と話した。

甲子園に半旗

プロ野球・阪神タイガースの本拠地、甲子園球場では半旗が掲げられた。

選手たちは練習開始前に外野に整列。「未曽有の被害をもたらした東日本大震災から10年を迎えました。犠牲になられた方々に哀悼の意を表し、黙禱(もくとう)を捧げます」というアナウンスが流れ、宮城県出身の馬場皐輔(こうすけ)投手、東北福祉大(宮城)出身の矢野燿大(あきひろ)監督らが黙禱を捧げた。

阪神は前日のオープン戦で、ルーキー佐藤輝明内野手が甲子園で本塁打を放った。父方の祖父母が宮城県村田町に住んでおり、「まだ苦しんでいる方もいる。そういった方にも勇気をちょっとでも感じてもらえたらいいかなと思います」と話していた。

ボランティアの人ら、行方不明者を捜索

宮城県名取市の閖上浜で、仙台高専教授の園田潤さん(50)の研究室と宮城県内のボランティアグループ「復興支援プロジェクトSTEP」による行方不明者の捜索が始まった。

園田さんらは、地中レーダーを搭載した2台のロボット車両で砂浜をスキャンして捜索。何度も捜してきた場所だが、園田さんは「新たに運ばれてきている砂もある」。

STEP代表の郷右近巧さんは2013年から閖上浜や周辺での捜索に取り組んできた。参加する人も最近は減少傾向だというが、「捜している人、待っている人がいる限り、やらない理由はない」。

避難呼びかけ亡くなった兄に祈り

岩手県大槌町の海の見える墓地では、消防団員だった越田冨士夫さん(当時57)を亡くした兄聖一さん(69)が、墓に花を供えて拝んだ。墓石には半鐘がかたどられている。

冨士夫さんは半鐘を鳴らし続けて避難を呼びかけ、津波にのまれて亡くなった。冨士夫さんに助けられたという男性も線香をあげに来た。「もう二度と、ふー(冨士夫さん)のような犠牲者が出ちゃいかん」

双葉町で僧侶が祈り

原発事故による避難指示で、いまだ全ての住民が避難生活を続ける福島県双葉町。1階部分が津波で大破した沿岸部の倉庫の前で、宇都宮市の僧侶の男性(81)が祈りを捧げていた。

男性は震災直後から津波の被災地をめぐり、祈りを捧げてきた。今年も2月中旬に岩手県を出発し、車中泊をしながら南下し、供養を続けてきたという。

男性は「10年が経ち、みんな震災のことを忘れ始めている気がする」と話した。

「テレビで震災、涙出てくる」

宮城県石巻市の西光寺の墓地に、夫金一郎さん(当時71)を亡くした阿部英子さん(76)が、妹の菅原とめ子さん(72)と一緒に訪れた。病気だった金一郎さんとともに、2階のベッドに乗ったまま津波に流され、引き波で橋にぶつかり夫の手を離してしまった。「いま思い出すとねえ……。あのころは無我夢中だったけれど、最近になってテレビで震災のことを見るたび、涙が出てくるの」

菊の花をたくさん持ってきた。このあとやはり犠牲になった2人の姉、星野廣子さん(当時69)のお墓も回る。「本当に10年たったんだね」と菅原さんは話した。

被災体験、動画で視聴

明治安田生命の仙台支社総合トレーニングセンター(仙台市若林区)では、社員約30人が当時の社員たちの被災体験を動画で視聴した。10年前、宮城県石巻市の営業所が浸水して3日間孤立するなど、東北各地の事業所で甚大な被害が出た。

研修を受けた伏見奈穂美(なおみ)さん(50)も10年前に同県塩釜市で被災し、避難先で子どもの粉ミルクやおむつがなかなか手に入らなかったことを思い出した。「営業所の社員にも家族がいるので、自分の命を守りつつ、お客さんのことも考えないといけない。普段からの信頼関係が大事だと感じた」と話した。

10年目、やっと涙

津波で行員らが犠牲になった七十七銀行女川支店(宮城県女川町)。かつて支店があった敷地そばの道路沿いの一角に、遺族有志が設置した慰霊の石碑がある。

宮城県大崎市の田村孝行さん(60)と弘美さん(58)夫妻は、支店に勤めていた長男健太さん(当時25)を亡くした。「今日も来たよ。天気がよくて、海がきれいだよ。これからも見守っていてね」。弘美さんは石碑に刻まれた行員の像をなで、声をかけた。

健太さんは当時、支店長の指示で同僚らと高さ約10メートルの支店屋上へ避難した後、20メートル近い津波に襲われた。再発防止のために真相を知りたいと銀行を相手取って訴訟を起こしたが、退けられた。

300メートルほど離れた場所に再建された支店の敷地内には、銀行が設置した慰霊碑もある。夫妻は初めて訪れ、献花したという。孝行さんは「胸のわだかまりが解けたとは言えないが、少しは前に進んでいるかな」。弘美さんは「今までは『なんでうちの息子が』と自問自答ばかりして、3月11日にここに来ても涙が出なかった。今日はこれまでのことがこみ上げてきた。10年経ってやっと悲しみに浸れるのかな」と目尻をぬぐった。

海を望む高台、追悼の場が完成

「何もなくなっちゃったな」。生まれ育った町が津波に流されて10年。海を望む高台に完成した宮城県南三陸町の「戸倉地区追悼の場」で阿部一郎さん(74)はつぶやいた。

戸倉地区の防災集団移転先に自宅を再建して4年になる。あまりに時間がかかりすぎた。隣の市に「一時的に」避難したはずの友人はそのまま定住し、町に帰ってくることはなかった。復興工事が終わりに近づき、地区に唯一あったコンビニもなくなった。

それでも、10年経って完成したこの場所が、この10年間で失われたものを取り戻す場所になることを祈る。「この追悼の場所ができたことで、昔の仲間が『行ってみっぺ』って手を合わせに来てくれたらうれしい」と話し、海に向かって手を合わせた。

「社会人になります」亡き母の墓前に報告

福島県南相馬市の高校3年、三浦光さん(18)は津波で亡くした母の浩美さん(当時36)らが眠る墓の前で、父や兄とともに手を合わせた。

震災当時は小学2年だった。地震の記憶は徐々に薄れつつあるが、厳しくとも優しい人だった母と過ごした日々は大切な思い出だ。「高校を卒業して、これから社会人になります。精いっぱい、親へ恩返しをします」と誓った。

陸前高田にたなびく黄色いハンカチと大漁旗

岩手県陸前高田市では、朝から黄色いハンカチがたなびいた。かさ上げ地に再建した家の庭で、菅野啓佑さん(79)は25枚ほどのハンカチと「福来旗(ふらいき)」と呼ばれる大漁旗を掲げた。

震災の2カ月後から自宅跡地で、そして2018年12月からはこの場所でほぼ毎日掲げてきたが、新型コロナウイルスへの感染を防ぐため、昨年6月から自重していた。

10年の節目に掲揚するかどうか、夜中に目が覚めるほど悩んだが、10年前と同じ「この街に幸せを呼び込みたい」という思いで、今月6日から再開していた。「何もなかった街が10年でここまで復興してくれてうれしいんだ。でも人が少ないのは寂しいな」

10年へて消防士の資格取る

宮城県気仙沼市の大谷海岸では、気仙沼高校2年の三浦向陽さん(17)が海を見つめて手を組んだ。

津波で近くの自宅は基礎しか残らなかった。当時、小学1年生。父と車で避難中、後ろから波に追いかけられ、船が迫ってきていたのを覚えている。

そして、幼稚園のころからの親友を失った。よく遊んだ仲だった。その無念さから昨年、地域防災のリード役となる「防災士」の資格を取った。「一人でも多くの命を救いたい」と願った。

あれから10年。親友を奪った海を見ると怒りがこみ上げていたが、最近少し気持ちが変わってきた。「定期的に津波は来る。避けられない存在だ。海は恵みをもたらしてくれる存在でもあって、今は複雑な心境。震災前と同様、海水浴客でにぎわってほしい」

「息子、悔しかったろう」大槌の旧役場で追悼式

岩手県大槌町の旧町役場庁舎の跡地に役場幹部や震災で犠牲になった職員の遺族らが集まり、追悼式を開いた。

震災当時、防災行政の実務担当者だった平野公三町長は「甚大な被害を防げなかったことへの責任を重く受け止め、犠牲となられた職員、町民、ご遺族に深くおわびを申し上げます」と語り、「地震、津波に対する危機感が薄く、津波の襲来を予測できないまま役場庁舎前にとどまって高台に避難する機会を逸した。深く反省をし、同じような事態を二度と繰り返さないことを誓います」と頭を下げた。

参列した佐藤芳子さん(67)は、役場職員だった長男拓也さん(当時29)を亡くした。「震災はきのうのことのよう。息子は悔しかっただろうと思う。ここへ来るとつらくなる。10年なので、と行事に初めて来た。庁舎を解体するにもせめて10年まで待ってほしかった。解体していまだに、何の施設も残していないなんて」と無念そうに話した。

横浜の男性、石巻訪問「必ず来たいと」

宮城県石巻市南浜町に震災後に立てられた「がんばろう! 石巻」の看板そばの献花台に横浜市の会社員安岡伸明さん(38)の姿があった。新聞記事で看板のことを知り、「今日に至るまで残っている看板と、引き継いでこられた方の思いを知りたい」と夜行バスで訪れた。

献花台の前で手を合わせ、「10年で必ず来たいと思っていた。いざ自分の目で見ると当時の爪痕が残っているのを実感する」と話した。

亡き妻に祈り「偉大だった。ありがとう」

宮城県名取市内外で亡くなった960人の名前が刻まれた同市閖上の慰霊碑。この日も多くの遺族が祈りをささげた。

「今日も来たぞー」。阿部好二さん(67)は自宅とともに津波で流された妻利子さん(当時55)と次女真澄さん(同23)の名前を指で優しくなでた。「他のより薄くなっちゃったな」。月命日は必ず、ここに来る。

震災当時は市建設課職員として、泊まり込みで道路のがれきの撤去作業に取り組んだ。誰かが役所を訪ねるたびに「うちのかみさんと娘に会わなかったか?」と聞いた。誰もうなずくことはなかった。

妻がいなくなってから、子育ても家事も大変だった。「偉大だった。ありがとうって伝えたい」

8メートル超の津波が奪ったのは尊い命だけでない。近くの日和山に上り、かさ上げされ、人が住めなくなった古里を見つめた。そこにはかつて、お隣さんがいて、なじみの居酒屋があった。「10年だからと特別な思いはない。街が元通りにならないというのは、悲しいね」

観音像に手合わせ「2度と…」

仙台市若林区荒浜には、10年前の津波で犠牲になった人たちを悼む観音像がある。市内の主婦関谷里恵さん(34)は息子の愛斗さん(11)、娘の莉愛(りや)さん(7)と並んで手を合わせた。

当時1歳だった愛斗さんと仙台空港にいるときに強い揺れを感じた。空港に津波が押し寄せたものの、難を逃れた。愛斗さんは当時のことを何も覚えていないと言う。「2度と起こってほしくないし、(震災を)子どもたちに伝えていきたい」

「原発ゼロ」目指し、国会議員がオンライン会合

原発ゼロ社会に向けて超党派で活動する「原発ゼロの会」の会合が東京都千代田区の衆院議員会館を拠点に、オンラインで開催された。

資源エネルギー庁や東京電力の担当者から東京電力福島第一原発の廃炉に向けた中長期ロードマップの進捗(しんちょく)状況について説明を受け、意見交換をした。

「ゼロの会」は、共同代表を務める自民党の河野太郎氏、立憲民主党の近藤昭一氏を中心に、2012年に結成(河野氏は現在休会中)。自民、立憲、共産、国民民主、社民各党の国会議員約100人が会員となり、国会開会中は毎週木曜日の午前7時15分からヒアリングなどを重ねてきた。

12年に全国の原発の危険度ランキングをまとめ、廃炉に向けた法整備や立地自治体対策を提言し、自民党政権復帰後の16年にも日印原子力協定を批判する談話を発表するなどの活動を行ってきている。

亡き息子に手合わせ「生きていれば彼女でも…」

震災で約750人が犠牲になった宮城県名取市閖上。かさ上げされた街が一望できる日和山には、朝から遺族らが訪れた。

両手に杖をついた伊藤十四子(としこ)さん(70)は、高校2年で亡くなった次男真伸さん(当時17)に心の中で語りかけながら手を合わせた。「10年間無事に生きてきたよ」

震災前に夫も亡くしていて、今は近くの復興住宅で一人暮らしする。部屋にいると寂しさが募るが、集会所で住民とたわいのない話をすると気が紛れる。「街はできても、人間の気持ちには計り知れないものがある。少しずつは前向きに、歩いていくしかないよね」

散歩と祈りは毎朝している。次男は素直な子だった。「生きていれば27歳。彼女でもできてたんかなあ……」

「黒い波思い出す」

岩手県宮古市では恒例の津波避難訓練があった。「災害はいつ起きるか分からない」として、この時間に実施。緊急地震速報に続き、大津波警報のサイレンが鳴った。

訓練に参加した金沢博子さん(72)は震災の津波で自宅が流された。「10年前もこうして避難した。堤防を越えてきたあの黒い波を思い出す」

避難所となっている赤前小学校では、新型コロナ対策として、体調が悪い人のためのパーティションや簡易ベッドの設置訓練もあった。地元の自主防災会の会長を務める釜ケ沢貞明さん(59)は「節目の年で身が引き締まる思い。地域の人にも改めて日頃の備えを呼びかけたい」。

「津波来たら、てんでんこで逃げる」

街を襲う津波から避難するため、多くの住民が身を寄せ合った宮城県石巻市の日和山公園。あの日、近くの勤務先から避難してきた市内の会社員三浦高弘さん(48)は、海辺の街を見渡して涙がこみ上げてきた。

震災直後、眼下の南浜・門脇地区は津波にのまれ、500人以上が犠牲になった。その時の恐怖が思い起こされたという。あれから10年。「こんなにも海は穏やかで優しかったのか。あんなことがあったのが信じられない」

幼なじみの同級生の男性が津波で犠牲になった。その数日前に食事して「また(プロ野球)楽天の試合を見に行こう」と楽しく過ごしたのを覚えている。「10年はあっという間」だった。「津波が来たら、とにかくてんでんこで逃げる。津波を経験したことがない人に、これからも伝えていくことが大事だと思う」

漁師仲間の遺体、今も不明

津波で大きな被害を受けた福島県浪江町の請戸地区。小高い丘の上にある大平山霊園を訪れた同町の漁師の石川忠正さん(69)は、津波で亡くなった漁師仲間3人の墓に線香をあげ、慰霊碑を見つめながら「安らかに眠ってほしい。碑に名前がある人は全員知ってんだ」とつぶやいた。

浪江町で4代続く、根っからの漁師だ。今は新潟県柏崎市に家族で暮らし、週に4日、1人で浪江に通い、ヒラメの試験操業を続けている。

漁師仲間3人の遺体は行方が分からないままだ。「早く見つかってほしい」と願った。

叔父の死、忘れない

宮城県気仙沼市の小泉海岸に、県内で最大となる高さ14・5メートルの防潮堤がそびえ立つ。その上で、地元の津谷中学校を卒業したばかりの尾形聖己さん(15)は同級生の仲良し3人と朝日が昇るのを見つめていた。

あの日は幼稚園の年中だった。激しい揺れで園の建物が揺れ、物がバタバタと落ちてきた。怖かったことを覚えている。市内に住んでいた叔父が津波で命を落とした。忘れたくなくて、10年となるきょう、誘い合って海に足を運んだ。

「3・11が近くなると、どうしても亡くなった人たちのことが心に浮かぶ。海が見えていた浜辺も防潮堤で見えなくなり、かえって不安だ。最近地震も多いし、津波はまたいつ来るか分からない。ああいう災害があったことは、自分に子どもが生まれても伝えていきたい」

新聞店主「あの日は配ることさえ…」

東京電力福島第一原発から約8キロ離れた福島県浪江町の老舗新聞販売所「鈴木新聞舗」に朝刊が届く。各紙とも震災10年の特別紙面だ。

4年前に原発事故による避難指示が町の一部で解除された後、所長の鈴木裕次郎さん(37)はたった1人で新聞を配り始めた。「原発事故直後は、こうやって新聞を配ることさえできなかった。部数は震災前の約6分の1だけれど、かすかな希望は感じている」